渡加後初めての夏休みは、短大を卒業した夏でございます。
両親が卒業式に来てくれた時は1ヶ月滞在しました。
(これはまた違うページで・・・)
で、音楽学部に進学できなかった私は、ビクトリア大学の音楽学部長に勧められるがまま、一般教養科(Arts and Science)に編入する事にし、卒業に必要な音楽以外の教科を先に受講し、その間にオーディションに向けてレッスンを受ける日々を送ることにしました。
そんなわけで、結局この夏は帰国をせず、バンクーバーからビクトリアへの引越の準備をするべく、ビクトリアへアパート探しに行ったり、荷作りしてアパートを掃除したりしているうちに、あっという間に過ぎていきました。
さて、めでたく編入が出来たのはいいのですが、私が置かれた状況は以前にも増して日本語のない世界でございました。
幸いにも短大時代に一緒に勉強した仲間が何人か同時にビクトリア大学に編入したので、知り合いがいたのは助かりましたが、ビクトリアもバンクーバー同様、売るほど日本人がいる町なのにも関わらず、とにかく知っている日本人はゼロ。なので、日本語を全く話さない日々がずいぶん続きました。
英語を習得するにはもってこいなのですが、あまりにも日本語が恋しくなってきて、段々辛くなってきたのは確かです。その事を短大時代からの友人に話していたので、会うたびに「日本語を話す相手は見つかった?」と聞かれ、見つかっていないと言うと、「いい加減にしないと新聞の求人欄に日本人募集って載せるぞ!」とよくからかわれました。心配してくれるのはありがたい事でしたが、その当時は、思ったよりも日本人を探すのは難しいものでした。
大学には校内新聞があり、それを見てボランティアに参加する事にしました。何かしら気を紛らわすものを見つけようと思って。ひとことでボランティアといっても色々あるのですが、一番私の目を引いたのは、ラジオ番組のホスト。3回の講習を受けて、デモテープ審査が通ると、大学構内のラジオ局で番組をもてる、と言うものでした。とりあえず講習だけでも受けようと思って受けました。結構楽しかったのですが、もちろん自分のラジオ番組を持つなんてその時はあまり考えなかったし、競争率が激しいのは言うまでもありません。何かずば抜けてプロデューサーの心を掴まむものがなきゃ、自分の枠を持つのは無理のようでした。ま、その時の私は、とにかく気を紛らわすものが欲しかったので、講習を受けてプロデューサーの話を色々聞くだけで充分でした。
さて、この頃に私が受講していた大学の授業ですが、音楽学部に必要な音楽以外の授業の中で、語学コースがあります。私が必要とされていたのは、フランス語、ドイツ語、イタリア語の中で2言語。授業の時間の関係で、私が選択することが出来たのはドイツ語とフランス語でした。これプラス、文科系コース1つと理数系コース1つ。私は言語学と心理学を受講しました。
おつむの足りない私。こんな私がこのようなコースを受講するのは無謀でした(笑)。語学コースは基本的にその言葉で全部授業が行われるわけですが、必要な文法事項だけは英語で補足的に説明されます。それにしても、英語と日本語が頭の中がぐるぐるしているところにフランス語とドイツ語を習うだなんて、今考えてもあほなことをしたなぁ、と思います(笑)。しかもドイツ語は集中コース(1年間に2年分をカバーする)だったので、辛かったぁ(^^;)。ドイツ語の授業の時にはフランス語の様に語尾を全部発音しないで読んでは怒られ、フランス語の授業ではドイツ語の単語がでてきてなかなか単純な答えすらだせずに怒られの毎日(笑)。
でも、言語コースを受講していたおかげで、日本語を話す機会を見つけることが出来ました。ビクトリア大学では東洋学部(Pacific and Asian Studies)が充実していて、日本語は特に(少なくともその当時は)人気がありました。日本語学習者も多く、週に1回日本語学習者のための日本語を練習する場を設けようと言う事で始まった日本語クラブと言うものがあり、丁度日本人ボランティアを探していると言うポスターを目にしました。早速参加したのは言うまでもありません。やっと日本語を話せるー!とホッとしたものでした(笑)。他の日本人のボランティアもいて、やっと日本人の友達が出来ました。
その日本人の中に、ひとりだけどうしても引っかかる人がいました。
何だか私はよく思われていないような雰囲気を感じ取り、第一印象がめちゃめちゃ悪いなーこの人、なんて思っていたわけでございます。しかし! 2週間ほどして一緒にお昼ご飯を食べる事になり、恐る恐る話をし始めたら、相手も同じ事を考えていた様で(笑)、実は思い違いだったということが発覚し、それからはものすごく仲がよくなってしまったわけでございます。それから、私は彼女にピアノを教えたり、英語を助けたりしながら(彼女はESLの生徒でした)、一緒によく遊びました。でも、3ヶ月したところで、彼女は日本に帰ることに。あまりにも仲良くなったので、私としては本当に寂しかった。でもこればかりは私も止められませんから、涙ながらに彼女を見送りました。彼女の名前は世都。看護婦さんでした。
世都が帰ってしまった後、もう一人私の心の支えとなる人物にあいます。彼女も日本語クラブに顔を出していた一人ですが、見た目は沖縄人(笑)なのに、沖縄訛りがない、なんとも不思議な人物。彼女は東洋学部専攻で、私と同じ歳。同じく高校を卒業してすぐにカナダで勉強を始めたとの事でした。彼女とも最初はあまり話しをせず、なんとなくお互いにお互いを探り合っていたのですが、世都の時と同様、話をしたら打ち解けて、それからはずっといい友達でございます。
こんな事をしているうちに時は過ぎ、いよいよまたオーディションの時期がやってくるわけですが、歌もピアノも音楽学部の教授について習っていたので、少しは自信がついた…というより、神経が図太くなったんでしょう(笑)。とにかくやるしかないわけですから、できるだけのことはしました。歌の先生は一番最初にレッスンをお願いした時に、「あなた、オーディション受けたわよね。覚えているわ」とおっしゃってくださり、それはそれは丁寧に色々な事を教えてくださいました。レッスンを始めて4ヵ月後には、音楽学部のアンサンブル合唱に加えてくださいました。ピアノの先生は教授ではなく教授の奥さんに習いました。彼女もプロのピアニストで、根気よく教えてくださいました。
これで落ちたらどうなるんだろ、私…とかなり心配しながらオーディションを受けました。だって後はないんですから。ま、ここまで来たらできることをするしかないわけで…
で、オーディションも終わり、結果を待ちきれずに電話をかけてどうなったかを聞いてしまいました(笑)。結果的には合格したのですが、専攻はピアノ。歌ではなかったのです。私としてはかなり複雑でした。ピアノはもう弾かない!!なんて思っていたのに、ピアノ専攻になろうとは… |